東求女塚古墳(ひがしもとめづかこふん)は、兵庫県神戸市東灘区住吉宮町にある古墳。形状は前方後円墳。史跡指定はされていない。

菟原処女の伝説に登場する茅渟壮士(ちぬおとこ)の墓と伝えられるが、実際にはこのあたりの豪族のものとみられる。

概要

元々民有地であったため、墳丘は崩されて原型を留めていない。現在は西側の前方部が神戸市立遊喜幼稚園の敷地、東側の後円部が求女塚東公園となり、円形の墳丘残土を岩で囲んだ上に「東求女塚之碑」が立てられている。

元々の大きさは、1883年(明治16年)刊の『住吉村地誌』によれば「封土の高さ一丈、周囲八四七間、積面一反四畝二十七歩」とあり、全長80メートル、前方部の幅42メートル、長さ42メートル、後円部の直径47メートルと推計される。1872年(明治5年)の発掘調査などで、6面の銅鏡(うち4面は三角縁神獣鏡)、勾玉、大刀、碧玉製の車輪石などが出土した。

1982年(昭和57年)9月に行われた北西側前方部コーナーの発掘調査では、葺石と周溝が確認され、埴輪は確認されていないが須恵器・土師器などが出土した。

沿革

民有地であったため、土地の所有者が転々とし、墳丘盛土の一部が削られて畑や家の壁土にされたほか、阪神電鉄開通の際に住吉川を越えるための勾配作りの路線工事のために土を取るなどして、古墳は崩されていた。

人々の間でこれが問題となり、また名勝史跡調査としてその筋からの達もあって、村会協議会の結果、1904年(明治37年)1月に反高林村有地と交換。西側の前方部盛土を取られた土地は花六が借りて花卉園とし、東側の後円部盛土を残す部分は住民の塵捨場の観となって残された。1915年(大正4年)に至って、所在地である住吉村仲区の住民一同により幾分土を加えて石垣を積み、上に梅・松・楓20数本を植えて風致を良くして記念碑を立てた。遊喜園(現在の神戸市立遊喜幼稚園)が1918年(大正7年)9月に久原房之助により開設され、園庭の東端に保存される事となる。

脚注

参考文献

  • 『住吉村誌』武庫郡住吉村、1946年。 
  • 神戸市教育委員会「東求女塚古墳現地説明会資料(1982年〈昭和57年〉9月26日)」『昭和57年度遺跡現地説明会資料』神戸市、1987年10月25日、23-42頁。https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search/item/11073?all=東求女塚古墳l。 
  • 道谷卓 編『日本史の中の東灘』㈶神戸市民文化振興財団、神戸市立東灘文化センター、1989年。 

関連項目

  • 西求女塚古墳 - 菟原壮士の墓と伝えられる古墳
  • 処女塚古墳 - 菟原処女の墓と伝えられる古墳

こふんとねこすこし 東求女塚古墳・西求女塚古墳

西求女塚古墳(にしもとめづかこふん) takubonの花鳥音月

西求女塚古墳 とも姐の神戸散歩

神戸の古墳めぐり その4 ~処女塚古墳・西求女塚古墳・東求女塚古墳~ 坂の上のサインボード

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