四条男爵家(しじょうだんしゃくけ)は、藤原北家魚名流(四条流)四条家の庶流にあたる華族の男爵家。
歴史
家祖の四条隆平は権大納言四条隆生の末男だが、四条隆謌侯爵の養嗣子となった。隆平は戊辰戦争で北陸道鎮撫副総督・先鋒副総督を務めて軍功があり、1869年(明治2年)に賞典禄200石を下賜された。また参与に就任し、新潟県裁判所総督、柏崎県知事、越後府知事、岩代国巡察使、若松県知事・若松城守、五条県知事、奈良県令といった地方職を歴任した後、宮内省御用掛、華族第五部長、元老院議官などを務めた。1876年(明治9年)8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき賞典禄と引き換えに支給された金禄公債の額は2944円55銭9厘(華族受給者中449位)。
1894年(明治27年)に隆謌の養嗣子の地位が廃嫡となるも四条侯爵家から分家し、明治31年7月20日に勲功により華族の男爵に叙せられた。貴族院議員も務めた。隆平の先妻の繁子は内大臣広幡基豊の次女、後妻の好子は安原順堂の娘。
隆平が1911年(明治44年)7月18日に死去した後、長女駒子の夫である婿養子の隆英(二条斉敬六男)が2代男爵となる。隆房は東京帝国大学法科卒業後、農商務省に入省し、工務局長、農商務次官、商工次官などを歴任して商工業の発達に貢献した。1929年(昭和4年)の退官後には安田保善社理事や、安田生命保険、東京火災保険、帝国製麻株式会社などの社長を歴任して事業家として活躍した。1932年(昭和7年)からは貴族院の男爵議員にも当選して務めた。
1936年(昭和11年)1月2日に隆房が死去し、その長男隆秀が3代男爵となったが、1938年(昭和13年)4月14日に死去。その弟の隆貞が4代男爵となり、彼の代に男爵家の住居は東京市杉並区善福寺にあった。隆貞夫人淑子は、三条西公正伯爵の長女。
隆貞の子に隆元(たかあさ)、その子に隆和がある。
系図
- 実線は実子、点線(縦)は養子。系図は『平成新修旧華族家系大成 上巻』に準拠。
系譜注
脚注
出典
参考文献
- 石川健次郎「明治前期における華族の銀行投資―第15国立銀行の場合―」『大阪大学経済学』第22号、大阪大学経済学部研究科、1972年、27 - 82頁。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『昭和新修華族家系大成 別巻 華族制度資料集』霞会館、1985年(昭和60年)。ISBN 978-4642035859。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036702。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。



